「どちらを選択するかは、個人の問題で、それに外野はとやかくは言えないはずで す。(まぁ、言う人はいるけど)

(2015年12月14日の記録)

偉そうなことを藤澤さんに対して書き続けていますが、全て自分に言い聞かせて いる物だと思っています。

スポーツを続けてうまくなろうとする人には大きく2つの傾向があると考えてい ます。
1、〇〇選手のように△△をしたい。
2、勝てるようになりたい。

ある程度の所までは、1,2は両立します。
っで、あるレベルまで到達した際に、両立できないことを知ります。
そこで、選択をすることになります。
どちらを選択するかは、個人の問題で、それに外野はとやかくは言えないはずで す。(まぁ、言う人はいるけど)

1の人はコレクターの道へ進み、2の人はアスリートの道へ進むと言えるかと。
早くから2を宣言する人に対して、1に進むと2に切り替えが難しくなると思っ た時、僕は非情な宣告をすることがあります。
「2に将来進みたいなら、1の対象を変えた方が良い」と。
藤澤さんに対しては、「伊達さんは辞めた方が良い」と。
これは、伊達さんのプレーが、あまりにも中心分布から外れすぎているので、2 にシフトチェンジする際に、ものすごい障害になる。
そして、伊達さんの真似自体がとても難易度の高い物であること。
伊達さんを元に「1」を目指すなら止めないけれど、「2」に進むなら止めます。

これは、どうやって伊達さんのプレーが成り立っているのかを考えれば、たどり 着くんではないかと、、、あくまでも僕の私見です。
それでも選択するのは個々の選手です。
遠回りしようがなにしようが、自分の道を進めばいいのです。
その選手が遠回りすることで、僕が何かを損するわけでもないので。
それに、それが遠回りかどうかなんて、誰にもわからない事ですから。
あくまでも、(テニス素人の)僕が考える伊達さんの技術について考えたことか ら、その技術を真似することの功罪を考えての提案にすぎません。

やってみて「ダメだ」とわかることは、ダメだったことの原因を体験できるの で、その行為自体が経験として残ります。でも、この言葉の裏には、もう一つ大 きなものがあります。
それは、そこに費やした時間を取り戻すだけの効果を得ることが求められている ことです。
つまり、やってみて「ダメだ」とわかるだけじゃダメなんです。これだと、単に ダメだった経験しか積めません。失った時間を取り戻せないことが多いんです。 なぜダメだったのか、もうその類のミスはおこなさいための学びが必要なんです。
何も挑戦しない人には、1、「”挑戦”」には価値がある」として、最初は接します。
でも、次は、2、「挑戦の”結果”に目を向けて考察せよ」としていき、
3、「無駄な”挑戦”をするな」となります。
3は、1→2と進んだ結果、3を実践できるので、3にたどり着くには1(時と して”無駄”)が必要となります。
このことを為末だか室伏が言っていたのをテレ朝の番組で見たような・・・

特に、弱いうちは、勝敗以外の「何か」に目的を置いて、試合に臨むといいと思 います。スポーツは基本的に弱い者いじめですから。
いじめられているうちは、それが嫌になってしまうことが多いので。
耐え凌ぐしかないのですが、その耐える時間が短くなることを、願いますし、そ の方法に出逢えることを祈っています。
でも、将来性の無い凌ぎ方は、未来を奪うので、オススメしないというドSなこ ともいっておきます、はい。