The first and best victory is to conquer self.
自分に打ち勝つことが、最も偉大な勝利である。
(古代ギリシアの哲学者 / 紀元前427~紀元前347)
- 初戦で当たった相手が優勝する。
- 偶然、そういうことが続いた。
- これを「負け癖」と、人は言うのだろうか。
問題は、初戦で負けることが次の試合に響くことだ。
初戦で負けて、雪崩式に調子が崩れていくことだ。
事実上の決勝ってやつが、予選の第一試合に、あったのだとしても。
理事長の部屋に寄せられた声に回答する。
Q:ディアドラカップの試合動画みました。エアケイさんがしょうもない人に負けているのが気になりましたが、なぜですか。
A:ダブルスと理事長練習をやりすぎて体力が回復しなかったのではないかと。
Q:腰痛よくなったんですか
A:なりません。慢性化しました。
Q:半月板は大丈夫ですか?
A:そこは問題なし。
Q:時間の問題ですかね?
A:まだ大丈夫です
Q:理事長さんがおっしゃるなら問題なさそうですね
A:膝が割れて死ぬ人間いないんで。
Q:付き合っていくしかない?
A:競技を続けたければ。
Q:理事長さん足、治ってないですよね
A:治らないです一生。
Q:日常生活に支障は?
A:ありません
Q:テニスに支障は?
A:ないです
Q:それなら・・
A:しょせんテニスなんて。その程度。
・・
・・・ありがとうございました。
エアケイと道場破りクンが、
「負け癖がついちゃうから、勝ち癖をつけたい。」と、理事長に愚痴る。
それぞれ、どうやら本当そう思っているようである。
ちなみに、エアケイはこの1年、初戦で当たって負けた相手が優勝する、という大会が多い。
つまり、勝てる相手に負けて、自分の気持ちに負けているのである。
補欠くんの言葉を借りれば
「初戦はアップ」
そう言いつつ、もつれて動揺して負けると、次の試合に響くのだ。
廃部をかけた真夏の大会
理事長は、真面目に見ていた
初戦が厳しいと2人ともモチベーションが下がる
いい大人の男よ
大の男がしょうもないテニスにもつれてんのよ
気持ちは、わかる
テニスをしていると、
「あんなやつと・・」
そういう悔しい思いをすることは、理事長のキャリア&レベルにだって、多々、ある。
そんな悔しい思いをしたくなければ、競技なんか、やめてしまえばいい。
理事長はさいきん、補欠くんと少しだけ話をした。
補欠くんが最近、
「お楽しみテニスサークルの存在意義が理解できるようになりました。笑」
と、言う。
そりゃあ、そうでしょう。
補欠くんのレベルだと、何の練習もしてなくても、ちょっと現れてちょっと打つだけで、相当な気分転換になるわけでしょ
きゃあぁぁぁぁぁ~~~~~~~~❧❧♡☆彡
みたいな。
サークル・DE・テニス
が
が、が、が、が、が、が、
トップスピンの練習って、何なのアレ
なんで練習しなきゃいけないの
また理事長が美人でかっこよくてさ
俺がんばろう、と思うわけ。
「なんなの、さっきのプレイは!! 」
「そのぐらいの球が拾えなくてどうする!!! 」
とか
とか、とか、とか
理事長が真面目すぎるばかりに、テニス部の男子はいい思いができない
悪いね~・・・・・
テニス部なんてさー、男バレ男バス部に入れなかったやつが入る部活だから。
意味わかる?
あ
ごめん、あたし昭和ふたケタ
身長ね、身長の話ね。
テニス部がんばってるよね。
エアケイは、特にすごい。
うーん
誕生日を過ぎて、会社の健康診断の結果は内臓はどこも悪くない
血糖値も正常だし、、メタボの心配まるでなし
テニスのおかげ
ただ
さいきん身長が伸びたりする
機器の性能が、身長を高めに設定するようになっているらしい
負け癖と私たちはよく言うけれど、具体的に負け癖とはどんな癖のことだろうか。今回は勝負しなければならない人を対象に話をする。負け癖を二つに分けると
・敗北への定着
・勝利への躊躇
だと思っている。
まず本当に負け癖がある人は実は負けることがあまりない。というのも彼らは勝負自体をしていないので、明確な勝ち負けというのを明らかにしないで生きている。勝負というものは遠くの誰かがやっているもので、自分の人生とは無縁であると思っている。つまり勝利はおろか勝負というアイデアが人生にない。
彼らは勝利というのがどういうものかという味自体を知らないかもうすっかり忘れてしまったので、勝利と言われてもピンとこない。だから全く他人事のように勝利を眺めてしまう。最初のうちはほとんどなかった差が、傍観者でいる間にどんどんと開いていき、いずれまるで生まれた頃からそうだったように感じて生きている。傍観者でいることにすっかり慣れてしまっている。
誰でも勝者になれるという乱暴な意見を言っているわけではない。戦っても勝てないこともあるだろう。ただ負け癖のもっとも深刻な状態は、勝負をするというアイデア自体がすっかりなくなってしまうということだ。厄介なことに勝負を降り切るとそれなりにそこは居心地が良くなってしまう。特に勝負を降りた友達がたくさんいる場合。みんなで滅びに向かえばさほどさみしさを感じない。
もう一つの勝利への躊躇は、勝負はしようとしているけれど、勝ちきれない人に当てはまる。ずっと手に入れたかったものが本当に手に入りそうになる時、人は恐れ、戸惑い、緊張する。これを乗り越えてようやく勝利し、それを繰り返すことで勝利に慣れ始めるのだけれど、負け癖がある人はこれを乗り越えられない。つまり勝利に躊躇し、つまづく。
やっと勝利が手に入りそうだという瞬間、様々な迷いが生まれる。かなりの確率で手に入りそうな状況からそれがすり抜けたら一生後悔するのではないか。他のライバルが仕掛けてくるんじゃないか。いろんな考えが頭に浮かび、手に入れることが現実になりそうになればなるほど、緊張し、動きが自然でなくなる。そして何かのきっかけで動きが滞り、勝利をさらわれる。
厄介なのは、これが1、2度続くとまたあれが起きるのではないかという恐れが、さらに緊張を加速させ、本当にまた勝利を手放してしまう。そうなると完全に癖になってしまい、勝利が近づけば近づくほど、まるで自分の体がそれを嫌がるようにことごとく勝利を手放してしまう。
結局のところ、負け癖を直すには、小さくてもいいから勝利するしかない。自分は勝利してもいい側なんだという許可を自分に与えるため、また自分を信用させるために積み重ねて、勝つ。この小さな勝利を積み重ねそれを自分に印象付け、繰り返すことで負け癖が取り除かれる。間違えてもいきなり大きな勝利を手に入れようとしてはいけない。同じことを繰り返してしまい、言葉は勇ましくなっても、自分の本心がどんどん自分の言葉を信じなくなる。あくまで大事なことは現実の勝利を積み重ねることだと思う。そうすることで、人は自分の言葉と本心のズレがなくなっていき、次第に自分の実力が勝負どころで出せるようになる。
勝利の許可を自らに与えるのだ。長年座り続けてきた敗者の席を立つ決意をするのだ。自分を支配しているものを認識し、行動と小さな結果によって、自分自身を変えていくのだ。そうなれば勝利はさほど夢物語ではない。